私は過去、傷つきやすい性格で、よく人からも
「りえちゃんはとっても繊細なのね。」
と言われたりして、もしかしたらこれは嫌味もあったのかも知れませんが(笑)、自分でも本当にそうだと思っていました。
人が自分について口にした言葉を、あとから「あれはどういう意味だったんだろう」と考えてそこから抜け出せなくなったり(考えても答えは出ないので当然ですが・・・)、
とにかく、自分が他人からどう思われているか?について考えを巡らせては、勝手に傷ついていたんですね。
今でこそ、そのような過去の自分は『勝手に自分で傷ついていた』、というように理解できるのですが、当時はそんなふうにはなかなか考えられませんでした。
傷つく、ということは少なくとも自分は傷つけられた側なので、そこに関わる他者は『私を傷つけた』人、いわば加害者ということになります。
だから当然、傷つけた人たちに対しては被害者のような意識をもってしまうし、私のことを理解してくれなかった人、としてその後もなんらかのわだかまりをもつことが多かったです。
もちろん、相手にしてみればそんなこと知るよしもない場合も多くて、今思うとその人を勝手に加害者に仕立てていたのは自分だったのだ、とわかるのですが(!)
そう、傷つくというのは、結局のところそのほとんどが『勝手に傷ついている』ということ。
このことに気づいてからは、同じ状況であってもとらえ方、見方がまったく変わりました。
また、たとえ相手が自分を意図的に傷つけようとしていたとしても、今ではもう、ほとんどの場合で傷つかない自分がいます。
それは、私にはどんな時も選択肢があるのだということを知っているからです。
その選択肢とは、
どの解釈を自分の中で採用するのか?
ということです。
繊細さというヴェールの内側にあるもの
私もそうでしたが、「傷つきやすいのは、人の気持ちがわかるから」とか、「優しすぎるから」とかいうことはよく言われます。
そして、過去の私自身も、自分は人の気持ちをよく察して思いやるから、それを蔑(ないがし)ろにされた時や、仇のようなかたちで返された時に傷つくんだ、そう思い込んでいました。
だから、「人の気持ちがわからない無神経な人は嫌い」と言ってはばかりませんでしたし、そう言うことで自分を正しい立場に置いていたのだと思います。
それが変わったのが、人生の中で出会う『私に新しい価値観やものごとの見方を教えてくれた人たち』との出会い。同じ状況であっても、まったく異なる解釈をする彼らの影響により、私の中の視点も少しずつ変わってきました。
つまり、人の気持ちがわかりすぎる=優しいという図式は本当なのか?ということや、
私を傷つけた人たち=無神経で私の気持ちを踏みにじったという解釈も、果たしてそうだったのか?という視点です。
とてもほがらかで幸せそうで、人から大切にされている上に人間関係も良好であるという彼らがもつ、共通のあり方や考え方に触れたことが、すべてのきっかけでした。
たとえば、彼らに自分の身の上に起こった出来事と、そこで関与していて『私を傷つけた』人のことを話すと、たいてい決まって
「本当にそうなら、言い返してやればよかったじゃなーい!」とか
「それはきっと、りえちゃんのことを思って言ってくれたんだよ〜」とか
「気にしない気にしない。たとえそれが事実だとしても、それを信じるか信じないかは、りえちゃん次第なのよ!」などという言葉が返ってくることがほとんどなのです。
だいたいにおいて、自分の深刻さの度合いと比較してあっけらか〜ん!としているのと
また、言い返すとか、尋ねてみる、などの当時の私にとってはありえない反応を提案してきたり、
あとは、なんでそんなふうに考えるの?どんな考えを採用するかは自分次第なのに!というような、これも当時の自分にとってはまったくもって???という解釈とあり方だったのです。
人は自分ひとりで変わろうとするよりも、人からの影響で意識や考え方が変化することの方が多いし確実ということは、普段私もよく皆さんにお伝えしています。
例にあげたような反応も、ただ本で読んだり知識として教えてもらうのだけでは、なかなか腹落ちしなかったと思いますが、
自分の身近にいる尊敬する人や好きな人によって目の当たりにする場合、その影響度は非常に大きいと言うことになります。
つまり、そのような身近な人が見せてくれる『それまでの自分にはなかった考え方やあり方』こそが、自分の価値観やあり方に本物の疑問を投げかけるきっかけとなるのです。
さて、先ほどの、2つの疑問
人の気持ちがわかりすぎる=優しい?
私を傷つけた人たち=無神経?
について。
これを考察するヒントは、なぜ、あなたは人の気持ちをわかりたいの?と、あなたが傷つくことで得することがあるとしたら、それはなぜ?という別の問いに変換して、再度自分に問い直してみることをお勧めします。
そして、これは本当に自分自身と向き合うことでその答えに辿り着く必要があるのですが、たいていは、あなた自身の中に、人の気持ちをわかることで得られるメリットや、傷つく立場を取ることによるメリットに気づくことになります。
そう、人から理解されたくて、優しくされたいのはあなた自身がもつとても大きな欲求なのだということ。
もちろん、これは人間関係の中で誰でももつ欲求なのですが、大切なことは、あなた自身がどれだけ自分自身を理解しているのか。
なぜなら、その度合いの分だけ、あなたは他人のことも理解できるようになるからです。
つまり、もしもあなたが、自分のことが理解できていないから他人に自分を理解して優しくしてくれることを望む場合、意識は自分がどう思われ扱われるか?には向いているけれど、相手のことを本当には理解しようとしていない可能性もあるということ。
『優しすぎる』ほどの他者理解を示しているつもりでも、その本来の目的は自分を受け入れてもらうためである場合、それは単にひとりよがりの取り引きを勝手にしている状態で、相手がその取り引きに応じてくれない場合にあなたは傷ついているのだということ。
このことにしっかりお腹の底で気づいて納得できる時、あなたははじめて、自分の内側にある満たされない思いの本質を見ることができるし、あなたが今いちばんやるべきことは自分で自分を満たすということなのだ、ということもわかるはずです。
それが本当にできるようになると、あなたの意識は自分だけに向いていたひとりよがりの取り引き状態から、本当の意味で相手を見て受け入れる、つまりあなたが望んで止まなかったことを、あなたみずから相手にしてあげることができるようになるのです。
まとめ
ちょっと今日は、人によっては厳しめの内容となったかもしれません。
そしてもちろん、世の中には意図的に、あるいは意図的でないにしても無神経にあなたを傷つける人は実際多くいることでしょう。
ですが、私は今、過去の自分と比べて人の言動で『傷つく』ということが本当になくなって、ずいぶん楽になりましたし、その理由はやはり、傷つきやすさというヴェールの奥にある本当の自分の思い(欲求)に気づいたことが大きいと思っています。
自分は正しくて、しかも繊細で弱い存在なのだ。
そう信じているうちは、そんなあなたを傷つける出来事が次々と起こってくるでしょう。
なぜなら、それがあなたが信じて採用している解釈であるし、また実際世の中にはいろいろな考えや振る舞いをする人がいて、それをコントロールすることは不可能だからです。
幸せに生きるためには、あなたには選択肢があります。
ひとつは、繊細で優しくて正しいのに裏切られてばかり。だから、できるだけ自分を守って傷つかないように生きるという選択。
この場合、守りに入る分、他者に対してあなたは閉した自分で接することとなり、また、いつも不安と恐怖の中で猜疑心の強い自分で生きることになるでしょう。
もうひとつは、『傷つかない自分』で生きる決意をするということです。
それは、他者や外側の出来事によって自分の価値が決まったり、幸せが左右されるのだ、という信念を手放すということになります。
自分の幸せを作るのは自分である、という強い意志のもと、自分で自分を満たして理解し、その結果不安よりも安心感をベースにして他者と向き合う。
それは、つねにリラックスした自分でいることでもあるし、外側に対して開かれている、ということでもあります。
すると、他者のあなたに対する反応も変わるし、また近くにいてくれる人たちの種類も変わることでしょう。同じようにリラックスしていて、開かれている、幸せな人たちとあなたは繋がることになります。
さて、あなたはどちらを採用しますか?
ぜひ、考えてみてくださいね!