苦しいのは本来の自分を生きていないというサイン

私は今からだいたい10年ちょっと前、自分の人生にたしかなものを感じられず、違和感をうすうす感じていながら何をどうしたらよいのかわからなくて、今思うとそのときが過去もっとも苦しかったな、と振り返って思います。

外資系企業で社長秘書をしていた頃で、年収も額面で700万円くらい頂いていました。

都内に住んで、独身だし、好きなように時間やお金を使えていた頃です。

同じ年頃の女性は結婚して子育てしているか、私のように独身を「謳歌」している(ように見える)かのどちらかだったと思うのですが、私の場合、だからと言って結婚すれば解決するとも思っていませんでした

そこは、今の自分なら理解しているし、同じように苦しんでいる女性がいるとすれば伝えられるのですが、本当の自分を生きるということの本質においては、結婚しているかいないかは関係ありません

むしろ、本当の自分を生きるから、本当に一緒に生きるべきパートナーと出会うのです。

もちろん、女性の身体には妊娠・出産におけるタイムリミットもありますし、ある年齢のときが異性から最も求められやすいというのも事実なので、様々なご縁があって結婚に至ることは自然なことだし、幸せなことだとも思います。

ただ、「女性にとっての幸せは結婚し家族をもつこと」という刷り込まれた認識に関しては、私はそれは人によってケースバイケースで、そしてその女性が本来の自分を生きているかどうか、という点では分けて考える必要があると思っています。

なので、私はそこのところはうすうすわかってはいたのです。
結婚すれば解決するとかそういうことではない、ということが。

もちろん、結婚を拒んでいたわけでもないですが、単にそのようなご縁ある人と当時は出会っていませんでしたし、積極的に探してもいませんでした。

本当の自分を生きているという感覚がなかったので、異性との関係や結婚、家族をもつことに対しても漠然としていて実感がなかったというのが正直なところです。

大きな喪失感を伴う出来事は人生を変えるための軌道修正

一生懸命、エゴ=それまで培ってきた思考パターンや価値観を正当化する声によって、かろうじて自分を保っていたのですが、大きなショックを伴う出来事が起きました

それは、当時経験した失恋と、それによって湧いてきたあらゆる自己否定や他者否定などのネガティブな感情、そして職場や人間関係も望まない状況に陥ってしまった、私にとってはひとつの「事件」でした。

そのときは、当時の自分がもっていたものすべてが、「自分のものではない」ような虚しさと違和感でいっぱいの気持ちでした。

住んでいる場所も、職場も、そこでの人間関係も、そして親しくしていた友人たちも。

もちろんこれは、職場や友人などのとりまいていたものが間違っていたとかそういうことではありません。

私がわたしを生きていなかったから、そして魂の「違うよ」という、うすうす感じていた苦しい感情を見ないように騙し騙し時間をやりすごしてしまっていたから、私はそこにいてその人たちと違和感のある自分で繋がっていたということなのです。

そして数年後私は職場を退職し、1年間のイタリア行きを決めました。

その決定を話した職場の人たちからしてみたら、理解できない行動だったのだと思います。

戻ってきたら正社員の仕事は見つけにくいだろう、たとえ見つかったとしても今のような条件は無理に違いない、1年で帰ってきたとしても、そのときの年齢(40代に突入していました)でどうやって生きていくの、などなど、いろいろ言われました。

常識的に考えたら当然のことで正しいことですし、たぶん本当に私のことを思って言ってくれたんだと思います

ですが、私はもう、すべてを一度手放すしかなかったのです。
イタリアという遠い国である必要はなかったのかもしれませんが、当時の私にとってはこれも、縁と出会いと直感で導かれるようにたまらなく魅かれた場所でした。

結果、イタリアでの1年間は素晴らしい時間となり、また、短い間だけのものも含めてかけがえのない出会いに恵まれ、自分が蘇ったように感じる時間となりました

その後自分を本当の意味で立て直し、ほんとうにやりたいことを始め、住みたい場所に住み、好きなものに囲まれて本来の自分を生きだしたのは日本に帰ってきてからです。

日本帰国直後は想定通り、逆カルチャーショックと目の前の現実(仕事や住まい、お金のことなど)にしばらくは向き合わなくてはならない時間となり、しんどかったです。

ただ、ここでお伝えしたい大事なことは、目の前の現実や、自分自身と向き合ったりするときの「しんどさ」と、自分を生きていないときの「苦しさ」は別物だということ。

目の前の現実、例えば仕事が大変、お金がない、家族や自分自身と向き合う必要があるときなどはもちろん、楽ではないですし「しんどい」です。

でも、私の例でいうなら、イタリアですでに自分の意識が本来の自分を生きるという方向に向かい始めていたので、それはしんどいけれども乗り越えられるものだとわかっていたし、言ってみたら必要な痛みを伴う断捨離のような作業という感覚なのです

一方で、イタリアへ行く前の私は、いろいろとすでに持っていて傍から見たら安定しているようでいながら、心の内側が「違う」と言っている。でも頭は「これで正しい、何も変える必要がない」という板挟みのような状況で、硬直した現実の中で静かに魂が元気がなくなっていくような、そんな苦しい感覚だったのを覚えています。

まとめ

あなたが本来の自分を、与えられたすべてのものを受け取って、感謝しながら活かすとき、そこに多少の「しんどさ」はあったとしても、「苦しい」という感覚は湧きません

この、しんどさと苦しさの違い
言い換えれば、苦しいのは自分を生きていない、それは自己犠牲や自己欺瞞、自分に嘘をついている生き方だから、魂が苦しくて訴えているのです

違うよ、と。

そしてひとたびあなたが本来の自分を生きると「決めた」とき、目の前にどんなに困難な現実があったとしても、その乗り越え方も、乗り越えられることも、魂は知っているし、むしろ元気に乗り越えさせてくれます

今日は、目の前の現実を生きる時に感じる、苦しい感覚について書いてみました。

いま、私はちょっぴり大変でしんどいですが、苦しくはありません♡

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